2006.12.28 Thursday
クリスチャンでよかったと思うとき。
すごく妙な感じなんですが、
最近流行の、スピリチュアルな方々が仰る事って、
実は、全部、ちいさい頃に教会で勉強した事ばかりなんです。
毎日教会に行ってお話しを聞いて、讃美歌を歌って、聖書を読んで。
別に信仰を持っても持たなくても、
そこで聞いた事、読んだお話しは、生きていくのに役に立つ事だったんだと、
この年になって、そして、日々悲しい人々を見るにつけ思います。
もちろん教会で教わるような考え方は、
キリスト教圏の人たちが普段物事を考える時のベースになっているんですよ。
例えば<才能>について。
才能は聖書では<タラントの話>という逸話を使って語られています。
私は多分学生時代に1000回くらいは聞いている話しだと思います。
また同じ話、もうあきあき!っと当時は思っていたのですが、
大人になって将来を決める時に、これって本当に役にたつ話しなんです。
タラントつまり才能は、神様が勝手に与えるもので、私達自身には責任がなく、
その分量も人によって様々で、決して同じではない。
でも私達は量にも質にも関係なく、しっかりその才能を使う責任がある。
なんていうのが話しの骨子です。
だから、クリスチャンは、自分に才能がないことを悩みません。
だって、神様のせいだもん!
他人と、その量も質も比べません。
だって、神様がそうしたんだもん!
それより、自分の才能をしっかり把握して、
使って使って使い倒して生きていく事を考えるのです。
もちろん人間は未熟ですから、自分の才能を見誤ったりします。
そんな時には、”あら、間違えちゃったー!”とさっさとあきらめ、
自分が本来持っている才能を把握するところからやりなおしです。
そして、その才能とやらを見極める大事なポイントは、
やってて楽しいとか、時間を忘れて熱中するとか、
他の人よりもすぐれているとかのすごく単純な事。
もちろん、才能の見極めを間違えても落ち込んだりせずに、
とっとと別の才能を試すほうにエネルギーを注ぐんです。
だって、それこそが神様に与えられたお仕事ですから。
もちろん、フラメンコアーティスト、
特に歌手はクリスチャンである事が必要ですよね。
だって、教会で讃美歌のような歌詞で サエタやミサフラメンカも
歌わなければなりません。
自分の信仰が他にあっては、心をこめたカンテは無理ですもん。